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病とスピリチュアルペイン -精神科臨床に「生きる意味」の視点を取り戻す-
六番町カンファレンス 講演レポート
● 開催日:2026年6月3日(金)
● 演者:神庭 重信(一般社団法人日本うつ病センター 理事長/九州大学 名誉教授)
今回の講演では、精神科医療を「症状を治すこと」だけにとどめず、患者さんが病気によって失った生きがいや人生の意味にまで目を向けることの大切さが語られました。つらさの背景にある、その人自身の人生、価値観、喪失や葛藤を丁寧に受け止めること。すぐに答えを与えるのではなく、患者さんが新しい生き方を見いだしていく過程に伴走すること。待合室での様子や表情、診察室を出る後ろ姿にまで目を配るという神庭医師の言葉から、精神科診療とは、病気だけでなく「その人」を診る営みであることが伝わってきます。
病とスピリチュアルペイン -精神科臨床に「生きる意味」の視点を取り戻す-
精神科医は通常、患者の症状を把握し、診断を行い、その背景にある生物学的・心理学的・社会的要因を検討して治療を組み立てる。生物学的要因には薬物療法やニューロモジュレーション、心理的要因には心理教育や心理療法、社会的要因には環境調整やソーシャルサポートが対応する。しかし神庭医師は、こうしたbio-psycho-social modelだけでは捉えきれない苦しみがあるのではないかと問いかける。それが本講演のテーマである「スピリチュアルペイン」である。

― スピリチュアルペインとは何か
人は、重い病気、死別、挫折、孤独、事故や災害などによって、それまで自分を支えていた人生の意味や価値、生きがいを失うことがある。神庭先生は、こうした苦しみを単なる「つらさ」のままにせず、「スピリチュアルペイン」と名づけて認識することに臨床的な意味があるとする。
講演では、スピリチュアルペインを考える手がかりとして、ヤスパースの「限界状況」が紹介された。人は、死、苦悩、闘争、罪責など、自力では避けることも乗り越えることもできない状況に直面する。その経験は、それまで当然と思っていた自己や世界のあり方を揺さぶり、自分が何のために生きているのかを問い直す契機となる。
別の表現をすれば、スピリチュアルペインとは、自分がそれまで抱いてきた価値観・人生観、すなわち「こうありたい」「こう生きるはずだ」という信念体系と、現実の自分との間に大きな乖離が生じたときの苦しみと考えることができる。
これは必ずしも宗教を意味しない。生命の危機に直面した人が人生の意味を問い、亡くなった家族とのつながりを感じようとしたり、自分を超えた何かに支えを求めたりすることも、人間に備わるスピリチュアリティの一つの現れである。緩和ケアでは身体的、心理社会的問題と並んでスピリチュアルな問題が重視されてきたが、日本の一般医療や精神科医療では、この視点は必ずしも十分に取り上げられてこなかったと神庭医師は指摘する。
― 精神症状の「背後」にあるものを見る
スピリチュアルペインは終末期医療だけの問題ではない。精神科を受診する患者もまた、重い精神疾患、挫折、孤独、災害、犯罪被害など、それぞれの「限界状況」を経験している。

たとえば統合失調症の患者では、症状そのものとは別に、「自分が変わってしまった悲しみ」「以前の人生には戻れない悔しさ」「精神障害を持つことになった怒り」が存在することがある。症状を軽減するだけでなく、その先に患者自身が再び生きがいや自分なりの生活を見いだすことが、リカバリーにとって重要になる。

近年のトラウマインフォームドケアが、表面に現れた症状だけではなく、その人の背後にあるトラウマを想定して患者を理解しようとするように、精神科医は「この症状の背後には、生きる意味を失うほどの苦しみがあるのではないか」という視点を持つ必要があるのではないか――これが講演の中心的な提案であった。
スピリチュアルケアは「答えを与えること」ではない。

では、精神科医はスピリチュアルペインにどう向き合えばよいのか。
神庭医師が強調したのは、患者に新しい価値観を教えたり、「こう考えるべきだ」と説得したりすることではない。本人が背負わざるを得ない苦しみに対して、治療者がどれほどそのつらさを感じ取り、その人を一人の人格として承認し、そばに居続けることができるかが問われる。
それまでの信念体系が崩れた患者に、「前向きになりなさい」「元気を出しなさい」と新しい価値観を押しつけるのではなく、まず、その状態にある本人をそのまま承認する。逆説的ではあるが、そのことが患者自身による新たな信念体系の形成を促すことがある。
ここで講演では、黒澤明監督の映画『生きる』が取り上げられた。死期を知った主人公は、それまでの生き方の意味を失う。しかし、何気ない一言をきっかけに、小さな公園をつくるという新しい目標を見いだす。人生の危機は、従来の価値体系を壊すだけでなく、新しい生き方への転換点となる可能性も持つ。
その「成長」は、必ずしも社会的成功や上昇を意味しない。むしろ仕事や地位を縮小したり、これまでとは違う人生を選択したりする「スケールダウン」であっても、その人にとってより豊かな人生につながることがある。

― 症例から見える「生きがい」の再構築
講演では、いくつかの症例(匿名化のため加工された症例)が提示された。
一流企業で昇進を重ね、取締役を目指していた男性は、昇進後にうつ病を発症した。治療によって症状は改善したものの、それまで人生の中心だった仕事上の成功という目標を失った。しかし、自身の経験を生かして社員のメンタルヘルスに携わる道を選び、エリートコースからは外れながらも、新しい生きがいを獲得していった。
また、退職後に妻を失い、孤独の中で重いうつ病を発症した高齢男性については、ECTによって症状が改善しても、退職後から続く役割喪失や老いていく自分との折り合いのつかなさが残っていれば、同じ環境に戻った際に再び苦しむ可能性があるとされた。症状の寛解後こそ、新しい役割や生きがいを模索する作業が必要になる。
さらに、対人業務への異動を契機に状態を悪化させ退職した患者が、農業という新しい仕事に移ることで、自分に合った働き方と家族を支える役割を取り戻していった例も紹介された。
これらの症例に共通するのは、治療の目標が単なる「症状消失」では終わらないことである。病を経験したあと、患者が「これから自分はどう生きるのか」について新しい答えを形成していく過程まで視野に入れる必要がある。
こうした視点は、特殊な症例だけに必要なものではない。神庭医師は、自身のうつ病診療について、生物・心理・社会的要因を評価しながら、まず心身の疲労を軽減し、周囲の支援や生活上の困難にも目を向けることを基本としている。治療が進めば、症状の改善だけでなく、病気によって傷ついたこころや失われた生きがいにも目を向け、徐々に復帰やその後の生活へと治療の重心を移していく。


また、治療者には、すぐに解決できない問題に性急な答えを出さず、その不確かさに耐えながら患者と関わり続ける姿勢も求められる。
― 診察室でできること
講演の最後には、神庭医師自身が日常診療で心がけていることが紹介された。
患者を待合室まで呼びに行き、その様子を見る。これまで話せなかったことを打ち明けてくれたときには、それを話してくれたこと自体を労う。患者の語りを頭の中で映像のようにイメージし、イメージできなければ情報がまだ足りないのではないかと考える。そして一回の診察で、何か一つ「言葉の贈り物」を渡す。
言葉で「変わりありません」と言っていても、表情、服装、態度などの非言語的情報との間に乖離がないかを見ることも重要である。患者が診察室を出る際には、カルテにすぐ目を落とすのではなく、その後ろ姿を見送る。肩を落としているのか、少し軽くなって帰っていくのか。そこには、その日の診療が患者に何をもたらしたかを考えるための情報が含まれている。
そして、深い悲嘆のただ中にいる人には、適切な言葉そのものが存在しないこともある。「あなたの気持ちはわかります」という言葉すら届かない場合がある。そのような場面では、言葉によって解決しようとするのではなく、患者とともに喜び、ともに悲しむという実存的な交流そのものが意味を持つのではないか、と神庭医師は語った。

― おわりに
精神科医療は、診断し、症状を改善することを重要な使命としてきた。しかし患者が病によって失うものは、症状や社会機能だけではない。それまで自分を支えてきた人生観、価値観、役割、生きがいそのものが失われることがある。
そうしたとき、患者の苦しみをbio-psycho-socialな要因だけで捉えるのではなく、「この人は何を失い、何を生きる支えとしてきたのか」「いま、その人の人生の意味はどこで揺らいでいるのか」という視点を加える。それがスピリチュアルペインという概念を精神科臨床に導入する意味であり、症状の改善を超えて、その人の人生の再構築を支える医療につながる――本講演はその可能性を示すものであった。
ポイント
- 精神科臨床ではbio-psycho-socialな視点に加え、スピリチュアルな側面にも目を向ける必要がある。
- スピリチュアルペインは、生きがいや人生の意味を支えてきた信念体系と現実との大きな乖離から生じうる。
- 精神症状の背後に、生きがいの喪失や人生の意味をめぐる苦しみがないかを見る。
- 治療の目標は症状改善だけでなく、患者自身が再び自分なりの生き方を見いだすことにもある。
- スピリチュアルケアとは、治療者が正解を提示することではなく、患者の苦しみを受け止め、その人を承認し続けることである。
- 病後の「成長」は社会的成功を意味せず、ときには人生を「スケールダウン」することが、より豊かな生き方につながる。
- 言葉だけでなく、表情、態度、待合室での様子、診察室を去る後ろ姿などにも注意を向ける。
- 言葉では届かない苦しみに対しては、ともに喜び、ともに悲しむという実存的交流そのものがケアとなりうる。
質疑から
講演後の質疑では、スピリチュアルペインを精神科臨床でどのように捉え、支えていくかについて、ヤスパース、フランクル、ロゴセラピー、ネガティブ・ケイパビリティなどをめぐって議論が深められた。
- ヤスパースの「限界状況」とスピリチュアルケア
最初の質疑では、ヤスパースの「限界状況(Grenzsituation)」について補足がなされた。
「限界状況」は1919年の『世界観の心理学』で示され、その後ヤスパースの哲学・精神医学における重要な概念となった。ヤスパース自身も、ユダヤ人であった妻との離婚をナチ政権から迫られ、大学を追われ、逮捕・収容の危険にさらされるという極限的な状況を経験したことが紹介された。
こうした限界状況を通過することによって、人はそれまでの自己のあり方を超え、「実存」に目覚めるというヤスパースの思想は、今回の講演で論じられたスピリチュアルペインと深くつながる。
また、神庭医師が講演の最後に紹介した、患者を待合室まで迎えに行く、語ってくれたことを労う、診察室を出ていく後ろ姿まで見る、といった日常診療上の実践そのものに、スピリチュアルペインを抱える患者へのケアの姿勢が表れているのではないか、との指摘があった。
- ロゴセラピーと「生きる意味」
続いて、フランクルのロゴセラピーについて議論された。
神庭医師は、ロゴセラピーについて、理論としては非常に魅力的である一方、実際に治療法として行おうとすると決して容易ではないと述べた。フランクルの著作には具体的な方法が記されているものの、それだけでは彼が本来伝えようとしたこととの間に隔たりがあるようにも感じられるという。
議論ではさらに、フランクルにとって「生きる意味」は、本人が自由に作り出すというより、すでに存在するものを自分の人生の中から見つけ出していくものであったのではないか、という点が取り上げられた。
その背景にはフランクルのユダヤ教的思想があり、人にはそれぞれ与えられた意味があり、それを見いだしていくという宗教的な前提が存在する。したがって、共通する宗教的基盤の乏しい日本の精神科臨床で、フランクルの思想をそのまま適用することには難しさがある。
一方で、生きる意味はその人のこれまでの人生と無関係に突然作られるものではない。生育歴やそれまで経験してきた苦労、何を大切にして生きてきたかを丁寧にたどる中から、本人自身が新しい生きる意味を見いだしていく。その作業を治療者が支えるという点には、現代の日本の精神科臨床にも十分応用できる可能性があるという議論になった。
- 「解決できないこと」に耐える――ネガティブ・ケイパビリティ
ここから議論は、ネガティブ・ケイパビリティへと展開した。
精神科臨床では、医師が患者の置かれた現実を変えることのできない場合が少なくない。患者が長期間通院していても、苦しみの原因となる状況そのものは何も変わらないことすらある。
そのようなときにも患者は診察室を訪れ、つらい経験を語る。治療者には、それをただ聞き、「また次回お会いしましょう」「待っています」と伝えることしかできないこともある。
神庭医師は、まさにそのような状況で必要になるのがネガティブ・ケイパビリティではないかと応じた。問題を解決できないことに耐えながら、それでも患者とのつながりを保ち続ける。そのこと自体が、一見「何もしていない」ように見えて、実際には重要な治療的作用を持ちうる。
患者から「話を聞いてくれるだけでいい」「先生の顔を見るだけでいい」と言われることがあるという経験も紹介された。
- 治療者は「何かをしてあげなければならない」のか
この議論から、治療者自身の姿勢についても重要な論点が浮かび上がった。
治療者は、ともすると「自分が何かをして患者を変えなければならない」と考えやすい。しかし、スピリチュアルペインに向き合う場面では、その考え自体が治療者の「傲慢さ」につながる可能性がある。
「あなたに私は何ができているでしょうか」と患者自身に尋ねることには大きな意味がある。治療者が、自分には患者の人生を解決する力があるという前提から離れ、患者との関係の中で自分の役割を問い直すからである。
問題を急いで解決しようとせず、だからといって諦めることもなく、ただその人とともにあり続けること。それこそが、スピリチュアルケアとネガティブ・ケイパビリティの接点ではないか、という議論が交わされた。
- 現代のうつ病と講演で提示された症例
最後には、講演で示されたうつ病症例についての質問があった。
提示された症例が比較的典型的なメランコリー型うつ病に見えることから、現在でもこのような患者が多いのか、それとも講演のために典型的な症例を選択したのか、という問いである。
神庭医師は、講演では説明が複雑になりすぎないよう、長年の臨床経験から比較的理解しやすい症例を選んだと回答した。一方、現在の臨床では、ASDなどの発達特性を併せ持つ患者や、パーソナリティ上の問題を伴い治療が容易に進まない患者など、より複雑な症例も少なくないと述べた。
また、地域によって患者像に違いがある可能性も話題となり、現在の「うつ病」を一つの均質な患者群として捉えることの難しさも示唆された。
質疑を通して浮かび上がったこと
質疑全体を貫いていたのは、「治療とは、患者の問題を解決することだけなのか」という問いであった。
薬物療法や精神療法によって改善できる症状がある一方、人間の人生には医療によって消すことのできない喪失や苦悩がある。そこに対して治療者が答えを与えるのではなく、患者自身が自分の人生の意味を見いだしていく過程に付き合い続ける。
スピリチュアルペイン、ロゴセラピー、限界状況、ネガティブ・ケイパビリティという一見異なる概念が、質疑では最終的に、「変えることのできない苦しみを抱える人に、精神科医はいかにして居続けることができるか」という一つの臨床的課題へと収斂していった。